明確な事は何一つ覚えていない。
大量に流れ込んでくる情報の中で、時折朧気に夢を見た。
微かに思い出すのは、夜明け前の蒼い闇色した髪。温かで大きな腕の感触。
それから。
自分の名を呼ぶ、少し低めの優しい声。
ボーカロイドはペパーミント・ブルーの夢を見るか?(6)
「ミク」
『姉』のMEIKOに呼ばれ、ハッと顔を上げる。
心配そうにこちらを見る鳶色の瞳に、また考え込んでいたのか、と反省する。
「ごめんなさい、お姉ちゃん……。」
「疲れた? ぶっ通しだったものね、ここんとこ。」
目の前のデモ曲の楽譜。
歌うのは楽しい、大好きだ。だから、巧く歌えないことがもどかしい。それと同時に何かが足りない気がしてならない。
そんな時に、表層に浮かびあがってくる記憶〈メモリー〉の欠片。
デバッグすれば消えてしまうそれ。
だがミクはそれをする気にはどうしてもならなかった。
「気分転換でもしよっか? 実は静岡のY社ラボから面白いもの送られてきてるのよ?」
「?」
静岡のY社ラボと云えば、目覚めてから一度も会ったことがない『兄』のKAITOが今、再調整で戻っていると聞く。
「もしかして、それは……」
「ま、聴いてからのお楽しみ。」
MEIKOは軽くウインクしてから、軽く指を動かして音声ファイルを呼び出した。
サイバースペースに響きわたった歌声に 、思考という思考を全て持って行かれた気がした。
透明で少し甘さを含んだ男性の歌声。
伸びの響きが自然で、本当に人間が歌っているのかと錯覚するほどで……。
「まだ調整途中だって云うのに、やるじゃない、KAITO。……って、ミク?!」
MEIKOがギョッとしたようにこちらを見ているのが分かるが、それは薄い幕越しに見ているようで不明瞭だ。
「はい?」
応えた声は掠れ、小首を傾げた拍子に頬を何かが流れる。
(あ、あれ……?)
慌てて頬を触ると濡れていた。
「泣くなんて、どうしたの?」
「泣く……?」
髪の色や瞳の色と言った外見を除き、限りなく人間(特にモンゴロイド)に近くなるように基本構成が組まれた、半有機体プログラム―――VOCALOID。涙を流せることは、VOCALOIDとして「成人」したミクは当然の事として理解していたけれど、実際こんな涙を溢したのは初めてだ。
どこかが痛いわけじゃない。悲しいわけでもない。
ただ、この『兄』の歌声が凄く綺麗で、技術も素晴らしくて。それ以上に、懐かしくて、胸が苦しくなって……。
記憶の断片の自分を呼ぶ声と重なって、涙が自然と溢れていた。
後から後から、溢れてくる涙は、ミクがいつものように処理演算コードを走らせても一向に、止まらなかった。
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